中島久先生のご逝去を悼む

       ■■■ お亡くなりになられたときのご様子について ■■■

           (中島先生の主治医をしてこられた48回・山崎要さんから)

私、主治医として最期に接する事が出来たので簡単に顛末を御報告致します。
約8年前から大動脈瘤があり、それが少しずつ大きくなってきていました。
勿論、手術の話も何回も出ましたが最終的に今夏、“しない”と決断されました。
私は主治医として血圧のコントロールだけをしていました。
そして昨日、午後0時55分頃、奥様から“様子がおかしい”との連絡があり、1時10分、御宅に参上しましたが既にベッドの上で永眠されておられました。
喀血とか苦しまれた様子とか一切無く安らかに休んでおられました。
午前中まで執筆されたり極く普通の様子だったそうです。
動脈瘤が上方に進展し脳の血管に影響したのか、冠状動脈に及んだのか、下方に進展したのか、剖検をしていないので正確には診断出来ていません。
その後、救急隊、警察の鑑識課も来ましたので、少し落ち着いたのは3時はまわっていたと思います。
横浜の御嬢様、お寺、先生が生前に決めておられた葬儀社に連絡しました。その後、奥様と二人だけとなりゆっくりと御話しました。
奥様は葬式は家族だけで、ひっそりとしたい、と仰ったのですが、私の立場もあるので、同窓会事務局にだけ、奥様の御意向も併せて伝えた次第です。
奥様がお一人になられた事もあり、一緒に葬儀の準備をする事となりました。
身の回りは整然とされてあり、葬儀に使用する為に容易されたとおぼしき写真も直ぐに見付かりました。生前に葬儀社とも、ある程度の事まで既に決めておられ、流石に御立派だと改めて痛感した次第です。
夕刻になり、同窓会の有田副会長様達が御見えになったので失礼した次第です。
以上概略をお伝えします。

              9月16日   宝塚南口   山崎内科医院   山崎要
お亡くなりになられたときのご様子について(山崎要)

追悼 中島 久先生(中川経治)

中島久先生を偲んで(山根久和)

中島先生の思い出
中島久先生のご逝去を悼んで

中川経治
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 中島久先生が9月15日に急逝とのメールが39回生の三木好信君から届き、余りに突然のことでしばし真偽のほど把握に戸惑ったことがつい昨日のことのように思い出されます。病状などの説明は特になかったので、いつも姿勢がよく体調不良などには縁がない人と信じ込んでいた私などは、正直な所、これは何か事故でも起ったのかとも思ってしまいました。
 少し冷静になったところで先生のご自宅へ電話をかけご様子を伺いました。出られたのは奥様だと思い、「久し振りです、以前甲陽にいた中川です」と申し上げたら、何とそれはお嬢さんでした。
「父は寝ている間に死にました、少しも苦しまずに。とても安らかな顔でした。お電話を頂き有難うございます。母にはよく伝えておきます。」と歯切れよく話されたお嬢さん、それはまだほんの1、2歳の頃、先生の傍らに佇んであどけない顔でこちらを見ていた当人です。愛らしいフード姿が印象的でしたから、おそらく冬の一日で中学校の辺りの道端だったと思います。

 お通夜には参れませんでしたが告別式には伺いました。たくさんの人でした。阪急宝塚線の中山駅に近い式場は200以上の椅子が坐りきれず、 室外もまた参列者で一杯になりました。読経から弔電披露、焼香と進み、参列者は一旦室外に出ましたがまた元の室内に戻って、焼香の終るのを待ちました。
 喪主の挨拶が始まり、まずお嬢さんが父の家庭人としての一面を話され、「家族を大切にし、よく気のつく優しい父でした。こんな父の子であることを私は誇りに思います」と締めくくられました。
 ついで喪主である倭文子夫人より、友人知己への感謝に併せ、先生の人柄を偲ばせる思い出とも追慕とも言うべきお話があり、最後を自作の短歌で締めくくられました。出棺まで一時間半、ともすれば儀礼的に過ぎがちな弔辞や虚飾を一切省いた、いい旅立ちでした。参列者の一人一人が先生との関わりを胸に畳み込んで最後の別れに臨んだものと推察します。まさに実質を伴った告別でした。

 中島久先生は昭和27年から甲陽学院で社会科の歴史部門を教え始められたと記憶します。私もほぼ同時期に社会科教師となり、初めは甲子園の高校でしたが、2年目から香枦園の中学へまわり、以来12年半、終始先生と完全に職場を共にしました。しかし先生は旧制の甲陽中学時代、私より2年上で、剣道部主将という輝かしい経歴の持主でしたから、私にとって先輩という感じは否めません。当時、先生は中々のロマンチストで、結婚相手は絶対に頭の良い事が条件だと言われていました。倭文子夫人はまさにその希望を満たすに充分な方だったのでしょう。両者の面目躍如というと
ころです。私は先生より大分遅れて結婚しましたが、式には出て下さいました。また私の両親があい次いで亡くなった時もキリスト教式の追悼式に来て下さいました。
 中学の用務員さんが一人、事情で仕事を辞めたことがあります。何か問題があったようで、大阪のちょっと名の知れたナイトクラブ゙に再就職する話しが出ていました。こんな時、本人の身の振り方を心配し、そっと個人で励ましの送別会をして送り出してやった話など、もう時効ですから公開しても好いでしょう。このように他人事ながら放っておけない先生の性格は、多分多くの卒業生との関わりとなり、それが集大成しやがて同窓会への貢献と言う形を生み出したのではないでしょうか。

 私たち関東に暮す者にとって母校は日々疎くなり勝ちです。特に高校は甲子園から移転してしまいましたから、特に古い卒業生は今や懐旧の手がかりを失って、今更母校へ行ってみても面白くないと思い勝ちでしょう。こんな時、中島久先生は本校同窓会の内側からいつも手を差し伸べ、関東組のため種々連絡役を引き受けて下さるのが常でした。数年前まで毎年開かれていた東京同窓会総会には校長や同窓会役員と一緒に必ず出席され、母校の現況を伝える事によって、生きている甲陽を興味をもって感じ取れるよう取り計らって下さいました。総会だけではありません。卆業年度毎の同期会にもよく顔を出され、例の中島節と称する挨拶で会場を沸かせては帰って行かれました。
 同窓会の人脈がたいへん太い先生のような存在がなくなり、暫くは心配もありますが、人は変わり世も移るのが正常な姿と考えれば、やがては時が逝きし先生の志を継ぐ人材を与えてくれるのではないでしょうか。

 先生と人生を通じて親交を保ちつづけた人間の一人として、その他界は痛恨の極みです。数年前先生が東京へ来られた時、上野精養軒で一緒に昼飯をとりました。私の勤務先がついその近くだった関係もあり、上野の山を思いついたわけです。精養軒は所謂ハイカラがその伝統です。興味を持たれたのでしょう、計らずもちょっと知りたいと言うことで、マネージャーに来てもらい、二人して店の由来をあれこれ尋ねました。テーマは精養軒つまり洋食の歴史です。そう言えば先生は日本史が専門でした。私は専門が変わってしまいましたが、この時ばかりは昔の教師時代ががたまらなく懐かしくなり、二人で甲陽のためビールで乾杯を重ねました。。

 いま、一人の近しい先輩かつ友人を失ったショックは言いようもありません。改めてここに追悼の意を表し、ご家族に一刻も速く時の癒しがもたらされるよう祈って止みません。 合掌
山崎要さん 48回(昭和42年)卒 宝塚市逆瀬台で山崎内科医院を開業
中川経治さん 23回卒 昭和38年にゲッチンゲン大学(独)に留学するまで甲陽で教鞭をとる。東京甲陽ネット特別顧問。
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中島久先生を偲んで

山根久和
 中島先生の突然の訃報に驚かれた方も多いと思いますが、私にとってもあまりにも突然のことでした。昨年3月に東京でお会いした折には、昔と同様の豪快な飲みっぷりで、全く衰えを感じさせない先生のご様子でしたので、先生が亡くなられて20日あまりが過ぎた今でもまだ信じがたい感じがしております。 
 今年の6月に、先生に担任していただいた47回生C組の関西在住の同窓生が中心になって、先生が80歳を迎えられる記念にと、先生をお招きして同窓会が開催されました。
 私は所用で出席できなかったのですが、その後で先生からいただいたお便りに、「健康のこともあり今後は同窓会等への出席はやむをえない場合を除いて差し控えたい」との趣旨が書かれており、先生も何か体調に不安を感じられるところでもあるのかと心配していました。
 私と同様、先生のご体調を心配した、同期の天野研一君は、今年の8月に宝塚に先生をお訪ねしたほどでしたが、相変わらずお元気で、また東京でC組同窓会を行う場合には来ていただけるとの話でしたので、ほっとしていたところでした。
 私は西宮の公立の小学校、中学校を卒業したため、甲陽学院には高校から入学し3年間しかお世話になっておりませんが、その3年間は個性豊かな先生方と友人に恵まれて大変楽しく充実したものとなりました。
 特に中島先生には、担任としてお世話になりました。私の進路についても迷うことなく自分の信じる方向で努力することができましたが、その背後に中島先生の精神的バックアップを感じていたことは今でもよく覚えています。
 先生は、個々の生徒について、性格や家庭環境をよく理解し、実に細やかな指導をされていたように思います。先生のそのご指導は卒業後も続いていたこと、そして、中島先生が多くの卒業生のよき相談相手であったことは周知のことと思います。私も卒業後は、数年に一度お会いする程度でしたが、常に身近で見守って下さっているような、一種の懐かしさを感じさせる存在でした。
 私も、現在、大学で学生の教育にかかわっておりますが、中島先生のように厳しさとあたたかさを併せ持つ、傍にいなくても応援していることを感じさせるような存在になれるよう心を磨いていきたいと思っております。中島先生のご冥福を心よりお祈りいたします。合掌。 
山根久和さん  47回(昭和41年)卒業  東京大学・生物生産工学研究センター・環境保全工学部門  教授
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