“光速”通信分野でさらに飛躍したいですね
「有機より無機の方が好きだったし、人間を相手にするのも苦手だった。しかし、30年、生産現場にいるうちに鍛えられましたね」   
日本板硝子株式会社 代表取締役社長
      ガラスは、古くて新しい無限の可能性を秘めた素材

 
海外工場の整理もついて約1年後の今年6月末、藤本さんは社長に就任した。光ファイバー網のインフラは当初の目算より遙かに下方修正することになったが、この分野が今後も収益に貢献してくれることは間違いない。
「エレクトロニクス、光、メカ。この3分野とガラスが相乗効果を発揮して、まだまだ色々なものが生まれると思いますね。液晶関連や通信機器の分野でも利益が出てきました。これらの分野を大事に育てていこうと思っています。また、ナノテクの材料としてもガラスが注目されています。色々な特性が新たにみつかっていて、近い将来、無機の中でもガラスが主流になる日が来るんじゃないでしょうか」
 
 
ガラスと聞いて素人がすぐ連想するのは、「建築物の様々な分野で生かされている素材」だ。
「確かにガラス建築がふえて、ガラスの特長をうまく使っているものが多いですね。強度も昔とは比較になりません。建築物そのものが倒壊、破壊するようなことがない限り、関東大震災レベルでも耐えることができますよ」と藤本さん。
 
 
研究分野として、また職業として、自ら選んだガラスという素材に改めて惚れ込んでいるかのような口ぶりだ。

―――若い社員にはどのようなことを言っておられるんですか?

「人を知れ、ということですね。世の中を知れ。自分を鍛えて、謙虚になれ。そして自分の技術を世に問え、ということです。自分だけの世界に引きこもって自己満足していてはいけない。世に信を問う、ということですかな」

―――座右の銘があれば教えてください。


「『成名毎在 窮苦之日 敗事多因 得意之時』です。瀬島龍三さんの言葉だと思います。成功の因は苦しいときに生まれ、敗れる原因は得意のときに芽生えている、というような意味でしょうか」

43回卒 藤本勝司さん
    多摩川堤のウォーキングでゴルフのハンデ、シングルを維持

 
社長になって生活面で変わったのは、「夜の宴会がふえた」こと。そこで、朝、自宅近くの多摩川の河原を、時には奥さんといっしょに歩くようにしている。  
 汗びっしょりになって帰宅し、シャワーを浴びて会社に向かうのだが、いまはこれが健康法でもあり、ゴルフのスコア維持にも役立っている。ハンデは7,8,9で、平均8。(恐れ入りました)
 
 
休日は読書や散歩で過ごすことが多い。時々、タレントの千秋さんが子供を預けに来る。1歳半の女の子。歩き始めたので、「ますますかわいいですな」という状況だ。 
 
千秋さんがタレントになりたいと言い出したときは、反対した。
 「芸能界なんていい加減な世界、という認識しかなかったですからね」
 だが意志が固かったので認めざるを得なくなり、幸いのびのびした個性が買われて売れっ子になった。 
 藤本さんの家から」車で20分ほどのところに住んでいるので、“保育所として利用されている”のだが、「女房なんかは、孫を預かるのがうれしいみたいですよ」とのこと。
 ご本人もまんざらではなさそうだ。「仕事に行くときも、終わったあとも、運転手とマネージャーがちゃんと送り迎えしてくれて、想像していたより、きちっとしていますね」
―――結婚を言い出されたときはいかがでしたか?
 
「早いとこ行ってほしい、思てましたから、そらもう、ウエルカム!でしたよ」(笑) 浜松町の、東京湾を見下ろす場所に東京本社がある。
 「無機の世界が好き」という藤本さん。ますます可能性が広がるガラスとともに、私生活や健康面でも充実の日々のようである。
      辛かった組合分裂、2年間赤字の子会社経営
 

 長い会社勤務の中で、辛かった思い出が二、三ある。 労組活動を6年続けたが、副支部長をしていた20代の終わりごろのことだ。
 組合が分裂した。
 当時は盛んに第二組合ができて紛糾した時代だったが、日本板硝子も例外ではなかった。それを食い止めようとする藤本さんたちは、厳しく糾弾された。
 「同じ職場の仲間同士だっただけに、精神的にきつかったですね」と述懐する。
 四日市時代も苦しみを味わった。保谷硝子との合弁でNHテクノグラスという会社を作り、その初代社長に就任したときである。
 液晶のガラスを作る会社で、先を見込んでの投資だったが、当初の2年間は、まるで仕事が来なかった。生産ラインを動かすことが出来ないのは、現場一筋で来た藤本さんにとって、実に辛く、また忸怩たる思いだっただろう。
 「黙っていても毎月1億の金が出て行きますからね。本社や銀行に頭を下げて金策に回りました。社員との親睦会の席でも、『売り上げがないのに私の給料はどこから出ているんですか?』なんて心配そうに聞かれました」  だが機(とき)到る。パソコンのモニターを始め、さまざまなディスプレーに液晶が使われ出したため、3年目になるとどんどん仕事が入ってきた。
 「最初の製品が出荷されるとき、現地採用のプロパーが涙を流して喜んでくれましてねえ」。
 「技術的知見は出し切った。やることはやった、あとは市場次第」という状況だったので、ようやく軌道に乗り、経営に目鼻がついたのを見届けて、5年で次の社長にバトンタッチした。
日本板硝子株式会社
設  立 大正7年11月
資本金 約410億円
従業員 連結 約12,000名 単体 約2,700名
年  商 連結 約2,700名 単体 約1700名

本  社 東京・大阪
工  場 四日市・市原・舞鶴・


 6月29日付けで日本板硝子の社長に就任した藤本勝司さんが甲陽を卒業したのは昭和37年。京都大学工学部に進み、工業化学を専攻した。学部卒業(41年)の後、大学院へ。
 当時は有機化学全盛の時代だった。ところが「有機化学は好きではなかった」という。必然的に無機の方に行き、ガラスの研究に明け暮れることになる。ガラスにさまざまな微量の着色減量を混ぜて色を付け、吸収スペクトルを取って透過率を調べる、といったようなことを繰り返していた。「遊んでいたようなもの」とご本人は笑うが、それがそのまま仕事に生かされることになった。






 「就職は当然ガラス会社へ、と決めていました」
 予定通り、その中の一社である日本板硝子に入社。以来、36年。そのほとんど、と言ってもいい31年間を生産開発の現場で過ごした。
 最初に赴任した舞鶴工場で4年、千葉の姉ヶ崎で18年、四日市5年、相模原4年である。舞鶴に着任した最初の年に結婚、4年目に長女・千秋さんが生まれた。彼女はいまタレントとして活躍している。
 工場では車や建築など色々なところで使われる色ガラス作りが長かった。まさに卒論のテーマの延長ではあるが、生産ラインを使った開発は気を抜くことが出来ない。さぞかし、朝早くから夜遅くまで、仕事人間、会社人間だったのでは?と水を向けると、即座に否定された。
「いや、工場というところはかえって時間がきっちりしているところですし、ましてガラス製造の現場は暑いですからね、特に何かがない限りみんな残業もしません。昔は4時終業で、時間になるとさっさと帰ってしまうんですよ。私もそれからテニスをしたり、休日には車で泊まりがけの家族旅行にでかけたりして、結構、家族サービスはしましたよ」
 
 甲陽時代の藤本さんは、「勉強ばかりしているように見えたんじゃないですか」と本人も言うように、地味な存在であったらしい。小柄で、部活もしていなかった。高校で軟庭に入っていた程度。「人間付き合いが苦手で、無口な方だった」とか。
 だが現場で鍛えられた。
 コミュニケーションと人間関係のよさがないと現場は活力が出ない。「おかげで人と話すことも酒を酌み交わして語り合うことも苦にならなくなりましたね」

 
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他の「OBinterview」を読む

(取材・文/新宮康彰)
     吉井先生に教えられた、人への思いやり。

 
甲子園の旧校舎の近くで生まれたが、戦災に遭い、夙川の近くに転居。安井小学校を卒業して甲陽に入学した。8歳年長の兄が甲陽だったので、「ごく自然な選択だった」という。
 甲陽時代は6年間、吉井良峯先生のクラスだった。 冗談は言わない、謹厳実直なタイプの先生だ。
「しかし生徒一人一人のことをよく見ていて、適切な指導をしていただきましたね」 
 叱られた思い出がよみがえる。中学生のときのことだ。用務員室に高齢の用務員さんがいて、藤本さんたちがちょっとからかったことがあった。それを吉井先生にみつかり、全員、机の上に正座させられて説教を頂戴した。そのときの先生は、涙を流さんばかりの表情と強い口調だったという。
「あの人は僕の恩師なんだ、と言っておられましたね。甲陽ではなく、どこかで何か教えを受けた方だったんでしょう。そんなこととはつゆ知らず、じじい、みたいなことを言ってたんですね。年齢的にも口さがない頃ですから」
 理数系はいいのだが、国語や社会、歴史がどうにも苦手だった。世界史で赤点を取ったことがある。そのときも吉井先生に滾々(こんこん)と怒られた。「こんな点では、世界史の先生に対して非常に失礼だ」と言われたそうだ。
「人に対する礼節、思いやり…、そういうことを教えてもらったと思いますね」と藤本さん。
 国語が苦手だったので、「担当の吉井先生には申し訳なかった」とも。高校時代、西宮から甲子園までの阪神電車でよくいっしょになったが、「いやでねえ…、逃げてましたよ」。
 
 

     柴田や尾崎を間近に見られたのは甲陽生の特権(?)

 
中学生の頃は体も小さく、丈夫でもなかったので、運動とは無縁だった。しかし高校に上がってから、軟式庭球部に入った。コートは校庭の、甲子園の駅寄りの場所。野球のグラウンドで言えば、レフトスタンドの位置である。そこで練習をしていると、ある時期だけ、打球がぽんぽん飛び込んできた。残念ながら甲陽の野球部ではない。春・夏の甲子園に出場するチームはすべて試合の前に甲陽のグラウンドで練習をしてから球場入りするのだが、その連中だった。
「甲陽の練習で軟庭のコートまで飛んでくることなんて、まず、なかったから、肝を潰しましたよ。法政二高の柴田、怪童と言われた浪商の尾崎。そんな凄いのが連日、あそこに来るので、ときどき見に行きましたよ」

 
柴田勲・尾崎行雄の対決は高校球史に残る名勝負だった。のちに柴田は巨人、尾崎は東映に入団して活躍した。
      見誤った需要予測で、新設工場を続々閉鎖の辛酸 

 四日市の次に藤本さんが担当したのは光事業部である。
 日本板硝子にはセルホックレンズという特殊レンズの技術と生産能力があり、これが世界シェアをほぼ独占していた。光ファイバーケーブルのつなぎ目に取り付けるレンズで、ケーブル端末からレーザー光をいったん拡大して直進させるレンズと、それを受けて収束させ、次のケーブルに取り込むレンズ2つでひと組みになっている。コンセントとプラグのようなものだ。
 インターネットが普及し、いよいよ光通信時代だと囃し立てられていた時期だった。アメリカや韓国が国土全体に光ファイバー通信網を敷設して超高速通信時代を先取りしようとしていた。
 最初は月産1~2万個だったが、このレンズが世界の標準になったため、注文が殺到し、2年後には月500万個を出荷しなければならないような状況になっていた。
 作っても作っても製品が足りなかった。しかも500万個がすぐに5,000万個の需要になるという予測が立てられていた。生産拡大の必要性に迫られ、各地に工場を新設した。日本2カ所のほか、アメリカ、シンガポール、ボルネオ北部(マレーシア)のシバタン島、そしてフィリピンに2カ所。 合わせて7カ所である。これで需要が10倍になってもなんとか応えられる体制にはなった。
 ところがどうもおかしい。需要予測が狂ったのである。
 世界中の国が急速な勢いで光ファイバー通信網を整備して高速インターネット時代に突入するだろう言われたため、日本板硝子も懸命に生産体制を整備したのだが、現実のスピードはそれほど早くなかったのだ。
 今後も加速は望めない、という判断を下すに至って、ITバブルに踊らされてしまったことに気づく。
 今度は、“作ったばかりの工場を閉鎖させるための海外出張”が続いた。集めた従業員は5,000人。頭を下げて回った。
 「会社にもごっつい迷惑をかけたし、現地採用の人たちをレイオフするのも申し訳ない気分でいっぱいでした。日本なら大問題になるところです」
 
 
その前の2年間で大きな利益を上げていたとはいえ、常務兼「情報電子カンパニー」プレジデントとしてセルホックレンズ生産拡大の指揮を執った藤本さんとしては、肩身の狭い日々だったに違いない。